知っている人も多いと思いますが・・・
ゲニウスロキというというのをしっていますか?
まぁ単純に「地霊」と置き換えられるものでもあるのですが、すべての土地にその土地固有の「土地神」というのが存在するとのことです。
昔は人間の能動的な働きかけによってはじめて土地に意味が与えられていたものなのですが、今はそれとは逆に、すでにそこにそなわっている意味を人間が受身的に認知するというプロセスに変わってしまっているそうです。
それはある意味では、人間の選択行為を合理化したいための「方便」と見られなくもないです。でもポジティブに解釈するなら、人々が土地の自然的条件・特性を何らかのかたちで把握し、それを客観化するべく、「ゲニウス・ロキ」と表現したものだとも言えますよね。
だからなんとなくでしか受け入れられないのが本音です。その土地固有のアイデンティティは自然科学的な分析に基づく部分と調査では明確にならない精神的な部分もあるはずです。それを自分らの勝手な主観で「ゲニウスロキ」と括ってしまっているのではないでしょうか。ケヴィン・リンチさんはその心理的な部分を少しでも合理化しようと思って「5原則」のような分析を都市解析としておこなっていました。設計研究会でランドマークやった時に、これは極端に考えれば「ゲニウスロキ」っていえるのかなぁとか考えたりします。そこに住む人各々に違う「ゲニウスロキ」が存在するんでしょうか。でも一部では歴史性を含んだ意味で、「ここはあの有名な武士さんが骨をうずめたところ」みたいなニュアンスで「ゲニウスロキ」を使用する場合もある…よね?とすると重複的にこの世には複数のそれがあることを肯定しかねません。
masudasi
「風水」でも「社会心理学」とも「現象学的地理学」ともなんか違う「ゲニウスロキ」っていったい・・・。誰か僕の拙い頭脳に潤いをください。ごめんなさい文章ぐちゃぐちゃで。
少し興味深い話をしたのでメモします。
教育とはどういうことなのでしょうか。
うまく利用しなければなりません。
超個人的な話ですが、乗り越えるべき障害であって、正解ではないでしょう。
僕が美しいと思うものを作っても、その評価軸を備えていないからです。
私的に究極に美しいものをつくることが目標です。
もちろん建築として成り立つためのプログラム上の問題は、すべて解けた上での目標です。
どうも僕は今、混乱しています。
今まで当たり前に評価として上がっていた話題が無効のことであるかのように、触れられないからです。
原因は、プログラム上の諸問題が解決されていなかったからです。
とても簡単な事ですが、すぐに見落としてしまう事に気がつきました。
美しいものを作るためには諸問題を解決するテクニックが必要であり、テクニックを生かすためには超個人的な美しいものに対する確固たる自信が必要です。
どちらを忘れても教育の場を生かす事ができません。
今気付く事ができてよかったと思います。
kam
こんばんわ。
最近気になっていることは映画における建築です。
特に僕はよくアニメ映画を見るのでアニメの建築です。
アニメにおいての建築は、全て現実で建っていそうで何か違和感を感じるものばかりです。
鉄コン筋クリートというアニメ映画を見てもただの町並みの映像なのに違和感を感じるのは何故でしょうか??
ここに出てくる都市がアニメと言う中でドラマティックに使われて都市の意外な使われ方に魅力を感じる気もします。
ジブリの背景にくる数々の都市も実際に題材となった都市がありますが、やはりジブリの世界観の中にあると、僕は行った事はありませんが実際よりよく見える気がします。
それは、アンビルドと言う物への憧れも隠れているのかもしれません。
全然、わからないので少し時間ができたら調べてみたいです。
なのでご意見などあればよろしくお願いします。
タケロウ
「好きだ、」という映画を見ました
水の音、草の音、風の音、足音、そして声の音
音であふれた風景にストーリーとも言えぬようなストーリー
そしてとっても女性が美しい
音楽にアンビエントというジャンルがあるけれど、これはまさに映画でのそれ
環境のような映画
僕はそのような音楽や映画にとても魅かれます
同じく
「tokyo . sora」も
監督も同じ
僕にとってはとても心があったまるのです
皆さんも見てみてはいかが?
miki
デザインの議論をしていると、自分や他の人の感性についてよく感じることがあります
皆同じ様な思考の源泉を持ち、または目標を掲げているのだと感じるのです
人の思考にはプロセスがあります そのプロセスは人によってまちまちで、幾重にも枝分かれし、行き止まり、そして収束して行きます
つまりスタートとゴールがそれぞれすでに決まっていると思うのです
たとえば行動における思考のスタートで「幸せになりたい」から始まり、ゴールは「気持ちいい」のように
それは欲求から始まり、満たされて終わる完全に内的な感覚です
しかしデザインにおいて重要とされてしまうのはプロセスにおいての「見立て」や「発見」だと思うのです
なぜならそれはゴールを説明するためのプロセスだからです
デザインは制作のプロセス自体だとも言えます
プロセスにも多様な段階があり、デザインプロダクト、建築などと呼べる段階に達せない物から、プロダクト(プロセス)を説明するために、プロセスのプロセスも必要になってきます
それが見立てや発見などの説明です
プロセスの多様さは混乱を招き、コミュニケーションの食い違いを発生させます
しかし求めていることはあくまでゴールであり、そのゴールを感じてもらうためにプロセスを説明する必要があるのです
デザインはゴールを感じてもらうためのデザインです
別の言い方をすればデザインは欲求のメタファーであり、ゴールそのものではないということです
アートにプロセスが加わるとデザインになると思うのです
つまりアートは鑑賞する側にとってはデザインに変じるのです
miki